ふくま健治

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住民奉仕の原点── 私の歩んだ道
汗して働く母の背を見て福祉大学へ
 父が病に倒れたのは、小学校の時でした。母は女手一つで、建設作業員をしながら、私たち姉弟三人を育ててくれました。
 質素でつつましい生活でしたが、母の深い愛情のおかげで、不思議と思い出は温かいものばかりです。
 それでも、家計を助けるために、新聞、牛乳配達や林業の手伝いなどをしました。
 「こんなに一生懸命働いているのに、どうしてこんなに貧乏なのだろう」
 母の疲れた後ろ姿や、荒れた手を見るたびに胸が痛みました。
 陸上選手として企業からスカウトされましたが、その誘いを断り、働きながら学べる福祉大学への進学を決意しました。これは、母への恩返しとして、貧しさに対する疑問を解明したいという、強い思いがあったからです。
命の尊さを知った学生生活
 新聞配達、地下鉄工事、中華料理店など、働きながらの学生生活は思った以上に苦しく、下宿のおばさんの胸で泣いたこともありました。
 しかし、当時世間の関心を集めた堀木訴訟や朝日訴訟を通じ、「人間らしく生きることの大切さ」を学びました。同時にまじめに働く人がいつまでも貧しいのは、その人に責任があるのではなく、社会の仕組みそのものに原因があることを知りました。
 こうして幼いころからの疑問が解け、同時に当時の貧しい暮らしを乗り越えることができました。この思いに共感してくれたのが今の妻です。
 そして、この運動の先頭に立っている人々がいることを知りました。それが日本共産党との出会いでした。
矛盾した社会への怒り── 人間らしくいきるために
 大学を卒業し、みんなが就職する中、私は自分の生き方を模索しました。そして、民間のボランティア団体である「生健会──生活と健康を守る会」を知り、そこに勤務することになりました。自分の力が何とかみんなの役に立てば、と願ってのことでした。
 しかし、働けば働くほど、貧しい人々の生活を知れば知るほど、あまりにも貧しい日本の福祉制度の現実にぶつかります。
 「人間が人間らしく生きる権利」は、待っていても得られるものではない。それは、自分たちで創るもの…… との思いから、私の議員活動が始まりました。

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